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境界-文化と両義性 [今日の一言]

境界には、日常生活の現実には収まり切らないが、人が秘かに培養することを欲する様々のイメージが結託されてきた。これらのイメージは、日常生活を構成する見慣れた記号と較べて、絶えず発生し、変型を行う状態にあるので生き生きとしている。(略)文化の中の挑発的な部分は、それが秘める反社会性の故に、発生状態においては、周縁的部分に押しやられるが、絶えざる記号の増殖作用の故に、中心部分を生気づけている。
---------------------------------『文化と両義性』 著:山口昌男

 ちょっと僕にはわからない、文章でした。主張が、といういより意図していることを理解できないという意味で。少しし難しすぎたかな?
 そもそも、タイトルの”文化”と”両義性”からして、理解できていない気がする?もし、「文化って何?」と質問されたらどのように返答するかな?辞書通りの返答はできても、その内容が正解だと思うのかな?試しに、手元の辞書を引いてみると、
①世の中が開け、技術が進んで生活が豊かになること。
②人間の精神のはたらきによってるくりだされたもの
(三省堂現代新国語辞典より)
とある。確かに、このような答え方もあるだろうが、何か物足りなさや、差異があるように思う。では、何かと問われると、言葉を濁してしまいそうだけれども。

 話は変わって、国語や読書感想文。夏休みの宿題なんかで出題されるものの中では、読書感想文が特に嫌いでしたね。みんなは、どうかな?読書自体は、むしろ好きなほうですが、課題図書に選定されるようなものがまた、自分の嗜好とは違うんですよね。さらに、その後の感想文。あらすじ書いて、「・・・と思います。」「・・・だと考えた。」等々。字数を埋めることはできるのだけれども、文章表現が単調で広がりのないのが、嫌でした。「楽しかった」という、結論になるのだとしても、それを表現するための手段や技法、経過を表すことができないのです。
 国語の力、特に読解力はは、日々の積み重ね。接した文章量(質含む)に比例すると思っているんです。では、表現力は?よく言われるのは日記を毎日書きましょう、とかですよね。それらをしなかったのが、現在の結果かなぁと考えたり。でも、単に書くだけなのも違うと思うのです。上手な人の文章を真似ながら(目指しながら)書くことで、文章も上手になっていくのかなと思っているのです。
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